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CHANEL

シャネル

CHANEL(シャネル)の歴史について

今や世界中の人がその名前を知っているであろうブランドですが、その過程はとても険しいものでした。ここでは世界中の女性達の憧れであるシャネルというブランドの歴史を紹介させていただきます。少し長くなってしまいますが最後までお付き合いください。

ブランドの創始者であるGabrielle Chanel(ガブリエル・シャネル)は1883年にフランス南西部ソーミュールに生まれます。父は行商人で11歳という幼い頃に母親を病気で亡くしてしまいます。やがて行商をしていた父親にも捨てられ、孤児院や修道院で育ちました。母親が他界して、残念ながら散っていく事となりました。その後Gabrielle Chanel(ガブリエル・シャネル)は孤児院や修道院で育つなど過酷な環境下で育ちました。

幼少期の頃に修道院で黒などべーシックな服を着用していた事からブランドアイテムはモノトーンのものが多いのではないかと言われています。この幼い頃の修道院の規律正しい生活の中でお針子としての技術を身につける事となります。

1905年に踊り子(歌手)を目指しキャバレーで歌う仕事に就き、彼女はとても美しかった為に店の人気者となり、ミドルネーム、ココと呼ばれて愛されていました。皆さんも聞き覚えがあるかと思いますがこれがココ・シャネル(CC)の由来となっていて、有名なモノグラムに繋がっています。

この時期に出会ったブルジョワ出身の青年将校の愛人となった彼女は、その青年将校の出資により、1909年に帽子のブティックを開業する事が出来ました。翌年の1910年にはカンボン通り21番地に帽子店「シャネル モード」をオープンさせます。その後も恋人から出資を受けてどんどん事業を拡大していき、当時の装飾が多い帽子の多い中でシャネルのシンプルなデザインは注目され、その後は帽子だけでなく衣服などを展開していきました。

ブランドの広告塔には著名人などは起用せず、シャネル自らが広告塔となります。やはりその美貌とカリスマ性に自信があったからこそ可能だったのではないでしょうか。

1913年にはフランスのDEAUVILLE(ドーヴィル)に新店舗を開業し、1915年にはフランスのBiarritz(ピアリッツ)にブランド初めてのクチュールハウスを出店させます。さらに1918年にパリのカンボン通り31番地にクチュールハウスをオープンさせ事業は順調に伸びていきます。1919年にクチュリエとしてオートクチュールのコレクションを発表しました。そのシックで着心地の良さを追求したシンプル&エレガンスを追求して高い評価を受けます。彼女はシンプルさは女性の解放であり、女性のスタイルだったと考えていました。

「コルセットから解放した」という声があがっていますが、当時コルセットを外すスタイルはLANVIN(ランバン)や、paul poiret(ポールポワレ)などが以前より発表していましたが、機能的なシャネルやジャン パトゥなどの功績は大きくて、そのファッション哲学は女性の社会進出の先駆けとなったと言われています。当時は男性用の下着に使用されていた動きやすいジャージ素材を取り入れた事はその後のレディースファッションに大きな影響を与えたのではないかと思います。またジャージ素材だけでなく紳士用のツイード素材を女性用スーツに仕立てたり女性がパンツを履く「パンツスタイル」などを提案しています。現在では当たり前となっていますが当時ではとても珍しかった事でしょう。

また余談ですがCHANEL(シャネル)がスカートにファスナーを使用し始め、そこから服にファスナーが使われるようになったそうです。これはHERMES(エルメス)がバッグにファスナーを使用したのを見て思いついたそうです。

1921年に「オードゥ・パルファムNO.5」を発表します。この名前の由来は、番号が付けられた実験ボトルが並ぶ研究室で、シャネルが5番目のサンプルを取り上げ「これにするわ」と言ったためだと言われています。これが後の世界の香水ベストセラーとなる「NO.5」が生まれた歴史的瞬間です。その他、現在に至ってシャネルは口紅などコスメ関連でも有名なブランドですが、当時から彼女自身が「メイクに光を」と語るほど化粧品の開発に積極的に力を入れていたそうです。

1924年にブランド最初のメークアップ コレクションを発表し、また同年、フレグランス、ビューティ製品を扱う香水の専門店「ソシエテ・デ・パルファン・シャネル」を設立しています。1926年には「リトル ブラック ドレス」を発表して、彼女が求めるシンプルスタイルはファッション界に大きなインパクトを与えています。

1940年代後半の頃にはシャネルの服を取り上げる上でキーワードとなる、「シンプル」、「エレガンス」、「実用的な服」は、CHRISTIAN DIOR(クリスチャン-ディオール)のニュールックと対照的であり比較されています。

1939年に第2次世界大戦が近づくと自ら「閉店」の道を選び「今の時代はもう、女性たちが服に構っている場合ではない」と言い残して、クチュール界から引退してスイスで15年にもわたる長い亡命生活を余儀なくされます。しかし1953年にかつての助手たちに「今すぐ、来るように。私たちはあと10年しか働けないのだから」と電報を打って再び彼女はファッションの世界に電撃的に復帰する事となります。

その翌年には1954年にシャネルがオートクチュールに復活させて多くのファンたちを喜ばせました。1964年秋冬の「パンタロン・ルック」などシャネルはスーツを中心として、シンプルで着やすい服を提案しています。また第2次世界大戦以前の黒のテーラードスーツをメインにしたコレクションはファッションジャーナリストからは「過去のシャネルと変化なく、期待はずれ」と厳しい評価を受けましたが、その反対にアメリカでは好評でした。その理由としましては当時のアメリカはすでに既製服が国内全体の影響力を持ち出していて、実用的、機能的なデザインにシフトしつつあったからと言われています。

1971年に残念ながらGabrielle Chanel(ガブリエル・シャネル)は他界し、そのシャネルの死後はブランドとしては低迷期となりましたが、ブランドを救ったのがファッション界の大物であるKarl Lagerfeld(カール ラガーフェルド)でした。彼は1983年からシャネルのオートクチュール、翌年の1984年にはプレタポルテをプロデュースしてたった数年でシャネルの売上は爆発的に増えて見事にブランドを復活させました。

2000年代に入ってもブランドの地位は確固たるもので、2007S/Sコレクションで発表した白と黒を基調にしたミニスカート(ミニドレス)に大きなサイズのサングラスのスタイルは衝撃を与えています。また2008年にはシャネルのアート・プロジェクトで、世界を巡回するアート展覧会「MOBILE ART(モバイルアート)が、日本の東京代々木競技場オリンピックプラザの特設会場で開催されました。

2012年3月、日本で2012-13年秋冬オートクチュールコレクションが披露された。ヘアはサム・マックナイトと日本の加茂克也が担当して、モデルもパリのショーでおなじみのステラ・テナント、リンジー・ウィクソンらが登場。会場にはバネッサ・パラディやサラ・ジェシカ・パーカー、安室奈美恵など豪華ゲストが招待されています。

その後ブランド復活の立役者であるKarl Lagerfeld(カール ラガーフェルド)氏が2019年に死去します。その後任としてラガーフェルドと30年以上に渡り最も近い位置で仕事をしてきたヴィルジニー・ヴィアールが受け継ぐ事となります。2023年には2022/23年 メティエダール コレクションのショーを東京で開催しています。

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ココ・シャネルの人物とは

ブランド創業者である彼女の人生はとても壮絶で、その生き方に多くの人が興味を持たれている事だと思います。ここで彼女の人物像について触れていきたいと思います。

彼女は孤児院という環境から世界的ファッションブランドを作り上げ、現在では世界中で多くの人々から認知されています。その創始者である彼女は揺るぎない彼女なりの美学があります。まず「古い価値観にとらわれない自由で自立した女性像」をコンセプトとし、デザイン性だけでなくファッションとして機能的でスタイリッシュなものを発表しています。

特に「女性の服の解放」というレディースファッションの中で多大なる功績を残しています。当時はエレガントなファッションが好まれていましたが、彼女が追求するものはシンプルで機能的なものでした。なかでも「コルセット」が主流であった時代にコルセットなしでも女性が美しく輝けるようなファッションを提案しています。またジャージ素材を使用した服も提案し女性たちの窮屈なファッションスタイルを良い意味で破壊しています。

また当時、黒色は喪服に使用されるイメージが現在より強くあったため、一般的なファッションとしては黒色は好まれていませんでした。それでも彼女は自分の確固たる信念を貫き黒色ベースの「リトル・ブラック・ドレス(LBD)」を発表して喪服の色として浸透していた黒をモードな色へと世間の認識を変えました。これはファッション業界における革命だといわれ、これを機に他のブランドも黒色を使用したファッションアイテムを制作するようになります。正にその時歴史が動いたと呼べる衝撃的な出来事だったといえます。

ココ・シャネルは生涯独身でしたが、実に多くの恋愛エピソードや愛人の噂が多くあります。孤児院で育ったため不遇の身分であった彼女は権力者やパトロンからの資金援助でブランドを成功に導いています。1909年に彼女にとって初めての店舗である「シャネル・モード」も、当時交際していた資産家のエルティエンヌ・バルサン、またその友人のボーイ・カペルからの資金援助により開業できたと言われています。またカペルが結婚をした後も長きに渡って関係を持っていたそうで、1919年に彼が事故死した際には現場に記念碑を依頼するぐらい特別な存在でした。

また恋多き女であったためトラブルは少なくはありませんでした。諸説ありますが、それはある男性と付き合った事でスパイ容疑をかけられた事がありました。当時、第二次世界大戦のなか不況で苦しい状況であったため閉店を余儀なくされていました。そこでフランスにいるドイツ軍が居住していた「ホテル・リッツ」に彼女がたまたま住んでおり、ドイツ外交官で諜報員のフォン・ディンクラーゲ男爵の愛人となります。その男爵は表の顔は外交官という立場でしたが、実はドイツ軍情報部のスパイとして機密情報を探るスパイでした。その任務のために各界の大物やイギリス元首相のチャーチルや英国貴族などとのコネクションをもつココシャネルに近づいたとされています。

しかし彼女も計算の上、フォン・ディンクラーゲ男爵と関係を持ったとされています。その理由としましては当時世界中で売れていた自身の香水No.5」の製造販売権を持っていたユダヤ人のヴェルテメール一族からその権利を奪うことを考えていました。ドイツ軍の権力者であるフォン・ディンクラーゲ男爵と一緒に「ユダヤ人の財産を禁止する法律」を利用して、ヴェルテメール一族からシャネルの香水事業を取り返せないかと図り、そしてお互いの利害が一致して協力関係を結びました。

戦時中という事でパリの民が貧困に苦しんでいる最中、敵国であるドイツの味方を持つココシャネルの行為は批判されます。その後ドイツが敗戦した後にスパイ行為や政治的関与の罪で彼女はとうとう逮捕をされてしまいますその後すぐに解放されスイスで亡命生活を送るようになります。これは交友関係があったイギリス元首相チャーチル氏によるはからいがあったとされています。

そしてスイスのローザンヌ地方での亡命生活はなんと15年という長きに渡り、今までに築き上げたファッション業界からは退く形となりました。彼女が引退した後はやはりブランド価値が下がってしまい、代わりにCHRISTIAN DIOR(クリスチャン-ディオール)やYVES SAINT LAURENT(イヴサンローラン)などが流行するようになります。

この亡命期間中はヴェルメテール兄弟の香水会社「パルファム・シャネル」の権利をめぐる争いに明け暮れることとなります。「シャネルのNo.5」は世界的ベストセラーの香水として確固たる地位を確立していて、その権利を巡る争いは注目されていました。1947年に法的介入がなされ和解が成立しました。

その内容は1924年にココ・シャネルとヴェルメテールとが結んだ契約で、これ以降の利益(主に戦時中)9億ドルがココシャネルに渡る事になりました。そして今後の「No.5の販売利益」の2%も彼女に渡るというものでした。和解後は、経営権や利益以外の、ココシャネルの生活や身の回りに関する面でもヴェルテメール一族からの援助がありました。そのおかげで「世界で最も裕福な女性」として記録された事もあります。

その後ヴェルテメール一族の支援によりパリのブティックを再開し、再びファッション業界にカムバックする事となります。15年のブランクがあったため最初の内は評価が得られなかったのですが、アメリカのファッション業界で高い支持を得ることに成功しています。アメリカでは既に「No.5」が知れ渡っており、さらにマリリン・モンローやジャクリーン・ケネディといった著名人がシャネル製品を愛用していた為、爆発的にシャネルの人気は高まります。マリリン・モンローの「寝るときにつけるのはシャネルの5番だけ」という発言は有名ですね。

華麗なる復活を遂げた彼女は住まいのホテル・リッツで数々のデザインの仕事をこなす日々を送っていましたが、残念ながら1971年の87歳で死去しました。彼女は「ローザンヌで埋葬してほしい」と生前から希望していた事から現在はスイスのローザンヌで眠っています。最期までデザイナーでありたいという彼女の信念に、世界中の多くの人々が胸を打たれた事でしょう。

CHANEL(シャネル)で活躍したデザイナーたち

Gabrielle Chanel(ガブリエル・シャネル)

ブランドの創始者で象徴で、そのカリスマ性は映画にもなるほどでした。レディースファッション界に様々な革命を起こし多くの功績を残しています。その美貌から「恋多き女」とされ、時にはスパイ容疑で逮捕され、亡命生活を送るなどその人生は壮絶なものでした。また世界で一番有名かもしれない香水「No.5」のおかげで巨万の富を得ることに成功しています。一時はファッション業界からは離れていましたが復活した後も精力的に仕事を続けて87歳で他界しました。

Karl Lagerfeld(カール ラガーフェルド)

シャネルが死去後にブランドのデザイナーに就任した人物で低迷していたブランドを復活させて人物でもあります。彼は1933年にドイツ北部のハンブルクでスウェーデン人の父とドイツ人の母のもとに生まれました。父親が事業に成功していのでわりと裕福な家庭で育った彼は、パリで教育を受け、絵画と歴史を勉強します。その後フランスのパリのファッション学校で学んでいます。1955年にはデザインコンテストのコート部門で優勝を遂げ、これを機にファッション業界から注目されるようになります。

その後は、BALMAIN(ピエール・バルマン)で修行を積み、オートクチュールの老舗ジャン・パトゥのデザイナーを務めるほどに成長します。5年間デザイナーとして勤務し、その後は独立してフリーデザイナーとして働き始めます。そしてChloe(クロエ)との関係がとても深くなり、複数のブランドのデザインをしながら長い間Chloe(クロエ)のデザインの仕事を続けていました。

その後はイタリアに渡り美術の勉強をしながら、そこでもティツィアーニのプレタポルテラインの立ち上げやFENDI(フェンディ)のチーフデザイナーを務めるなど忙しく活動しています。

1983年にCHANEL(シャネル)の「オートクチュール」のデザイナーに就任した後、なんと全てのデザインを担当する事になります。そうした彼の活躍のおかげで低迷期であったブランドは復活する事に成功しました。その功績から「モード界の帝王」とまで呼ばれるようになります。

近年では2002年にはイタリアのカジュアルブランドであるDIESEL(ディーゼル)とのコラボレーション企画でで発表したデニムラインはあっという間に完売しています。また他にも2004年には世界的有名なファストファッションの「H&M」とのコラボレーションを発表しましたが、もちろんこれもあっという間に売り切れています。

2019年に死去しましたが、彼の残した功績は多大なるものに間違いありません。

Virginie Viard(ヴィルジニー・ヴィアール)

「モード界の帝王」とまで呼ばれ大きな影響力をもっていたKarl Lagerfeld(カール ラガーフェルド)氏の亡き後に後任となったのはVirginie Viard(ヴィルジニー・ヴィアール)という女性デザイナーです。彼女はオートクチュールとプレタポルテ、アクセサリーを統括し、彼女はKarl Lagerfeld(カール ラガーフェルド)をとも尊敬していたのでインターンとしてシャネルで働き、その後Karl Lagerfeld(カール ラガーフェルド)氏と共にChloe(クロエ)に移籍して、またシャネルに戻ってくるほど彼を信頼していました。

「自分の右腕もあり、左腕でもある」とカールから言われるほどの関係で、今後、彼女から生み出される作品は我々をあっと驚かせてくれるに違いありません。

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